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新潟地方裁判所 昭和40年(ワ)249号 判決

第二四九号、第五八〇号事件原告 佐野一郎

第二四九号、第五八〇号、第三三号事件原告 佐野昭一

原告ら訴訟代理人弁護士 小野勝太郎

被告 佐野トミ

右訴訟代理人弁護士 坂東克彦

主文

原告佐野一郎と被告間において、亡佐野三郎が昭和三三年一月二一日自筆証書によってなしたものとして昭和四〇年四月二三日新潟家庭裁判所で検認を受けた遺言書および亡佐野三郎が昭和三三年一月二二日自筆証書によってなしたものとして昭和四一年一〇月二七日新潟家庭裁判所で検認を受けた遺言書がいづれも真正に成立したものでないことを確認する。

原告佐野昭一の請求はいづれもこれを棄却する。

訴訟費用中、第二四九号および第五八〇号事件で生じた分は、これを二分し、その一を原告佐野昭一の、その余を被告の負担とし、第三三号事件で生じた分は原告佐野昭一の負担とする。

事実

第一、当事者の申立て

(原告佐野一郎)

主文第一項同旨と訴訟費用は被告の負担とする。(第二四九号、第五八〇号事件)

(原告佐野昭一)

原告昭一と被告間において、

主文第一項の各遺言書がいづれも真正に成立したものでないことを確認する。(第二四九号、第五八〇号事件)

亡佐野三郎が昭和二八年三月二〇日自筆証書によってなしたものとして昭和四〇年七月二七日新潟家庭裁判所で検認を受けた遺言書が真正に成立したものであることを確認する。(第三三号事件)

訴訟費用は被告の負担とする。

(被告)

原告らの請求はいづれもこれを棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

第二、請求原因

一、亡佐野三郎はその生前(死亡に至るまで)別紙(一)ないし(三)に記載されている土地、建物を所有していたところ、昭和四〇年三月一六日死亡したが、原告一郎は三郎の養子、原告昭一は一郎の長男、被告は三郎の妻である。

二、三郎は生存中である同二八年三月二〇日別紙(一)記載の内容の自筆証書による遺言(以下「甲遺言書」という。)をし、右書面につき原告一郎の申立てにより、同四〇年七月二七日新潟家庭裁判所で遺言書の検認を受けた。

したがって、原告昭一は別紙(一)記載の土地、建物について受遺者である。

三、ところが、被告は、三郎は生存中である同三三年一月二一日別紙(二)記載の内容の自筆証書による遺言(以下「乙遺言書」という。)を、次いで、翌二二日別紙(三)記載の内容の自筆証書による遺言(以下「丙遺言書」という。)をしたと主張し、その申立てにより、前者の書面については同四〇年四月二三日、後者の書面については同四一年一〇月二七日、新潟家庭裁判所でそれぞれ遺言書の検認を受けた。

四、しかし、乙および丙の各遺言書は、いづれも被告が実弟の訴外柴田永吉と共謀して、三郎の遺産全部を横領するため偽造したものである。特に丙遺言書は、乙遺言書についての第二四九号事件の審理において、これが偽造であることが鑑定の結果判明した直後に、被告において新たに発見したと称して前述のように検認を受けたものである。

五、乙および丙の遺言書に記載されている遺贈物件の内容は同一であるところ、右物件の大部分は甲遺言書に記載されている原告昭一に対する遺贈物件に含まれているから、同原告は、被告が甲遺言書が真正に成立したことを争い、乙および丙の各遺言書が真正に成立したものであると主張する以上、受遺者として甲遺言書が真正に成立したものであることの確認を求めるとともに(第三三号事件)、相続人である原告一郎ともども、乙遺言書および丙遺言書(第二四九号、第五八〇号事件)がいづれも真正に成立したものでないことの確認を求める。

第三、請求原因に対する答弁

請求原因事実中

第一項は認める。

第二項のうち、甲遺言書ついて原告ら主張の検認がなさたことは認めるが、同書面は偽造である。すなわち、同遺言書の筆跡は三郎のものとは異り、同人は片仮名しか使用しないのに平仮名で書かれており、押印してある印鑑は偽造にかかり、また、同書面が作成されたとされている昭和二八年当時は、三郎は原告らと極めて仲が悪く別居していたから、三郎が右のような遺言書を書くはずはない。なお、その文面をみても、「右私の財産は適当な時に佐野昭一(孫)に贈与する」となったおり、遺言書の内容として不明確でもある。

第三項は認める。

第四項のうち、乙および丙の各遺言書が偽造であることは否認する。右書面はいづれも三郎の自筆にかかるものである。

第五項のうち、乙および丙の各遺言書に記載されている遺贈物件の内容が同一であり、右物件の大部分が甲遺言書に記載されている物件に含まれていることは認めるが、その余は争う。

第四、証拠関係≪省略≫

理由

一、亡佐野三郎がその生前(死亡に至るまで)別紙(一)ないし(三)に記載されている土地、建物を所有していたところ、昭和四〇年三月一六日死亡したこと。原告一郎は同人の養子、被告は妻として三郎の相続人であり、原告昭一は同一郎の長男であること。三郎の生存中における自筆証書による遺言として原告ら主張の甲ないし丙の遺言書があり、いづれもその主張するような経緯で新潟家庭裁判所において検認がなされたこと。以上の事実は当事者間に争いがない。

二、乙および丙遺言書の真否について

(一)  成立に争いのない甲第一号証の一および四、第七号証の一および三によると、被告のほか訴外土田勝、土田昭、佐野実、佐野花子、柴田永吉は、右各遺言書の検認のための審問において、これらの遺言書はいづれも三郎の筆跡による旨を陳述しており、証人柴田永吉(第一、二回)佐野実(第一、二回)の各証言および被告本人尋問の結果(第一、二回)中にも、右遺言書はいづれも三郎の筆跡によるものである旨、特に柴田証言(第一回)中には、乙遺言書(甲第一号証の三、乙第一〇号証の一)は三郎が柴田証人の面前で作成したものである旨の各供述部分がある。

(二)  しかし、(イ)乙遺言書と丙遺言書の内容を対照してみると、前者は昭和三三年一月二一日、後者は翌一月二二日と作成日付がわずか一日違いであるのに、前者にあっては受遺者が被告一名であるのに反して、後者にあっては被告のほか柴田永吉の二名が受遺者となっているばかりでなく、三郎の生年月日が前者にあっては明治一八年九月九日、後者のそれは明治一八年七月一八日と記載されていること。(ロ)前掲乙第一〇号証の一と対照すると、乙第八号証の一ないし三は乙第一〇号証の一の書き損じた反故であるが、これが発見場所について、柴田証人(第一回)は自分の本箱の一番下の抽斗である旨、被告は、第一回尋問においては、三郎死亡後間もなく仏壇の戸棚を整理している際衣類の下にあった旨、第二回尋問においては、何処から発見したかよく分らぬ旨それぞれ供述し、その間に一貫性が認められないこと。(ハ)丙遺言書は、乙遺言書が偽造である旨の後記鑑定人丹羽恭示作成の鑑定書が提出され、同遺言書に関する弁論が一旦終結(昭和四一年一〇月三日)した翌日に発見されたとされていることが、前掲甲第七号証の三と一件記録から明らかであること。以上(イ)ないし(ハ)からみると、前記(一)の供述等はにわかに採用できない。

(三)  ところで、鑑定人丹羽恭示、大西芳雄、猪刈秀一はいづれも、成立に争いのない甲第六号証(柴田永吉発信名義の葉書)および当法廷で採取した柴田永吉の筆跡等と乙第一〇号証の一(乙遺言書)、第一三号証(甲第七号証の二、丙遺言書)の筆跡とを対照し、その筆法、筆意、筆圧、配字等を検討した結果、右対照にかかる両者の筆跡はすべて同一人によるものである旨を明らかにしているから、右鑑定の各結果によると、乙および丙の遺言書はいづれも柴田永吉の作成にかかるものというべきである。

(四)  以上によると、乙および丙遺言書は三郎が作成したものということはできず(他に同人の作成にかかることを認定するに足る証拠はない。)、原告一郎が三郎の相続人であることはすでに述べたとおりであるから、被告においてこれが真正に成立したものであると主張する以上、同原告はこれが真正に成立したものでないことの確認を求める利益があり、その請求(第二四九号、第五八〇号事件)は理由があるのですべて認容すべきである。

三、甲遺言書の真否について

(一)  猪刈鑑定では、甲第二号証の二(甲遺言書)と乙第四号証の一、二(ふるい胴に三郎の氏名が書かれたもの)、第七号証(風呂敷箱の裏に、「昭和三九年」「受取」「佐野三郎」と書かれたもの)、第一五号証(三郎作成名義の「念証書」と題する借金に関する文書)、第一六号証の一、二、三、五、七(三郎振出名義の約束手形(同号証の一、三、七)および同号証の二の封筒に書かれた「間ふふ様」と同号証の五の封筒に書かれた「佐野三郎」の文字)はいづれも同一人の筆跡によるものとされており、乙第四号証の一、二、第七号証の成立は当事者間に争いがなく、証人柴田六郎は、乙第一五号証、第一六号証の一、三、七は三郎が作成したものである旨供述している。

これに反して、大西鑑定では、猪刈鑑定と同一の資料に基づいて検討した結果、三郎の筆跡と認められるものは、成立に争いのない乙第一四号証(「借用金証書」と題する書面のうち借用人欄の「佐野三郎」の部分)と乙第六号証(佐野三郎名義の「日記帳」と題する文書)、第一七号証(「ノートブック」と題する文書)の中の各一部の記載だけであり、乙第四号証の一、二、第七号証、第一五号証、第一六号証の一、二、五、七は三郎の筆跡とは認め難く、甲第二号証の二(甲遺言書)は、四種類の筆法が使用され、運筆がまとまっておらぬ等の理由から、まれもまた三郎の筆跡とは認め難い旨判定している。

そして、丹羽鑑定は、その理由において、甲第二号証の二(甲遺言書)と乙第四号証の一、二、第七号証は同一人の筆跡によるものである旨判定しながら、その主文においては、前段では右理由と同一の結論を述べているのに、後段ではこれを否定する矛盾をおかしているから、とうていこれを証拠資料とすることはできない。

以上述べたように、甲遺言書の作成者について、猪刈鑑定と大西鑑定では全く相反する結論を示しているから、そのいづれが採用に値するものか、にわかに断定しがたく、したがって、また、柴田証言中の前記引用部分も直ちに信用することは困難である。もっとも、証人大田一松の証言中には、「三郎は自分と二人きりのところで遺言書を書き、これが甲第二号証の二であるように思うが、詳しい事情は忘れた。しかし、自分は三郎に対し、遺言書は大切に保管するよう注意した」旨の供述部分があるが、後記認定の右遺言書発見時の状況等からすると、右供述部分が信用できるとしても、このことから直ちに甲第二号証の二が同証人の述べている遺言書にあたると推認することは困難である。(なお、同証人は、「右遺言書は封筒に入れて契印したように思う「旨供述しているが、成立に争いのない甲第二号証の一(甲遺言書の検認調書)によると、甲遺言書が封筒に入っていなかったことは明らかである。)

(二)  そこで、甲遺言書についての間接証拠を検討することとする。

前掲大田証言と原告両名尋問の各結果によると、甲遺言書発見時の状況として、原告らは、被告から乙遺言書の検認手続がなされたため自宅を探したところ、昭和四〇年六月末ごろ、当時使用していなかった自宅二階座敷の間の床脇にある戸袋の中に、原告昭一がおいてあった右雑誌のなかに甲遺言書が狭まれていたのを同原告が発見したこと。同原告は三郎と階下の室で起居を共にしていたが、三郎から遺言のことについては何も聞かされていなかったこと。三郎は原告一郎と不仲であり、このため昭和二九年末ごろ以来家を出て別居したが、その際重要なものはすべて持ち去ったこと。以上の事実が認定できる。

右認定によると、甲遺言書が三郎の遺言書であるというには、同人の作成后の保管は余りにもずさんであるといわざるをえず、前述したように遺言書は大切に保管するようとの大田証人の忠告を考慮すると、なおさら然りであり、そうだとすると、同遺言書が果して三郎の作成にかかるといえるものか、疑問の余地が多分にある。そして、本件に顕出されたその余の資料を検討してみても、同遺言書が三郎の作成にかかることを認めるに足る証拠は見当らない。

(三)  以上(一)、(二)で述べたところから明らかなように、甲遺言書が原告昭一の全立証によっても、これが真正に成立したことを認めることはできない以上、これが真正に成立し、かつ、有効であることを前提として受遺者としての地位に立つべき同原告の請求(第二四九号、第五八〇号、第三三号事件)は、すべて理由がないから棄却を免れない。

よって、訴訟費用の負担について民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 宮崎啓一)

〈以下省略〉

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